2016-01-12 16:41:00

教皇フランシスコへのインタビュー本「神の名はいつくしみ」


教皇フランシスコへのインタビューを記録した本、「神の名はいつくしみ」が発行された。

この本は、イタリアの新聞「ラ・スタンパ」のバチカン記者であるアンドレア・トルニエッリ氏が、2015年7月に教皇フランシスコにインタビューした際の内容をまとめたもの。

インタビューの内容は、9つの章、40の質問からなる。イタリア語のほかに数カ国語での出版が予定されており、特にイタリア語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語版の表紙には、教皇自筆のタイトルが用いられている。

同書において教皇へのインタビュー内容は以下の章によって分けられる。

1章 いつくしみの時
2章 告解の恵み
3章 あらゆる光を求めて
4章 罪びと、シモン・ペトロのように
5章 いつくしみが深すぎる?
6章 律法学者ではなく、司牧者
7章 罪びとはYES、腐敗者はNO
8章 いつくしみと同情
9章 聖年を生きるために

最初の章で、教皇は「今日の時代こそ、いつくしみが必要とされる時」と述べ、罪の意識が稀薄になる一方で、罪を癒しがたいもの、赦しがたいものと捉える人々の傾向を指摘。

貧困や疎外、現代の奴隷制、相対主義といった社会の病に傷ついた人類には、神のいつくしみが必要と説く教皇は、「いつくしみはわたしたちの神の『身分証明』であり、神はいつくしみ深くあり続ける。罪びとがそれを拒んだとしても、神はご自分を欺くことができない」と話している。

2章では、教皇は赦しの秘跡の重要さについて語っている。赦しは神に直接願うこともできるだろうが、告解場に行き、イエスの具現としての司祭の前に跪くことは、この行為を具体化し、正真のものとしてくれると説いている。

また、教皇は、自分の罪が人々を傷つけたという意味で、赦しは社会的側面をも持っている、自分の過ちを人の前で話せないならば、神とも話せないだろうと述べている。そして、告解場で体験するのは「裁き」ではなく、裁きよりもっと大きなもの、それは神のいつくしみとの出会いであると話している。

教皇は3章でも、神のいつくしみを得て、神から理解され、癒され、赦されるためには、罪の自覚が必要と語る。傷ついた心を差し出すことは神に最も喜ばれることであり、それは、わたしたちが自分の罪を知り、赦しといつくしみを欲していることのしるしであると述べている。

4章で、教皇は自分自身にも神のいつくしみが必要であり、それはシモン・ペトロがイエスを知らないと繰り返し言ったにも関わらず、イエスから選ばれているのと同様であると話している。

教会はいつくしみを強調しすぎるのではないかという意見に対して、5章で教皇は、「教会は真理を述べるために罪を咎めるが、同時に神の限りないいつくしみを述べるために罪びとを抱擁する」、教会は「7の70倍までも、つまりいつも」赦す必要があると説いている。そして「どれほど重いものであっても、人間の罪で神のいつくしみを超えるものは無い」と述べている。

また、6章で教皇は「人生で重要なのは、決してつまずかないことでなく、常に起き上がること」と述べ、それゆえ教会の課題は、「イエスに赦しを請うならば、常に再び始めることが可能だと人々に伝えること」と言っている。

教皇は7章で、贈賄・腐敗を個人・社会のひとつの生き方として「システム化された罪」と表現。「腐敗した者は罪を犯しても、それを悔い改めない」と指摘しつつ、キリスト者のふりをしながら、赦しを請う必要はないと信じ、自分と他人の尊厳を犠牲にしながら、日和見主義の中で生きる者たちを厳しく非難している。

教皇は「いつくしみは神のもの」であると同時に「同情は人間の顔を持っている」と、8章で指摘。イエスは現実を写真を撮るように外から眺めていたのではなく、その中に直接入っていくことを望まれた。世界的な無関心の広がりに打ち勝つためには、今日、この同情が必要であると訴えている。

最終章で教皇は、良心に忠実に留まり、神のいつくしみに心を開くために、物的・精神的ないつくしみの業が必要と話している。わたしたちは無償で受け取ったように、無償で与えなくてはならないと説き、十字架の聖ヨハネが述べたように「人生の終わりには、わたしたちは愛によって裁きを受ける」と強調されている。

 








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