2015-12-07 17:31:00

教皇、「いつくしみの聖年」は回心と救いの道を進む機会


教皇フランシスコは、バチカンで12月6日、日曜正午のアンジェラスの祈りを信者と共に唱えられた。

現在、バチカンの聖ペトロ広場では、飾りつけを終えたモミノキと大型プレゼピオ(イエスの降誕場面を再現した馬小屋の模型)が、降誕祭を待ち望む雰囲気を醸し出している。

集いの説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、荒れ野で回心を説く洗礼者ヨハネ(ルカ3,1-6)の姿を観想された。

ザカリアの子ヨハネに荒れ野で神の言葉が降り、ヨハネはヨルダン川沿いの地方で、罪の赦しのための、悔い改めの洗礼を人々に宣べ伝えた。

「回心」を考える上で、ヨハネの呼びかける悔い改めは自分には必要ない、自分は立派なキリスト教信者なのだから、どうしてこれ以上回心する必要があるだろうか、という「思いあがり」に教皇は注意を促された。

自分は大丈夫、回心は必要ないと思っていても、わたしたちは実際にイエスのように聖なる者なのか、人を赦すことができるのか、どのような場面でもイエスのように感じ、人々と喜びや苦しみを分かち合うことができるのか、自問するように勧められた。

洗礼者ヨハネの叫びは、閉じた考え、頑なな心といった、人類の砂漠に今日も響き渡ると述べた教皇は、この声はわたしたちが正しい道を進んでいるのか、福音に忠実に生きているのかを考えさせると話された。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という声は、心を開き、神の救いを受け入れよという招きであるとする教皇は、神はわたしたちに救いを絶え間なく与え続ける、それは神がわたしたち皆が罪の隷属から解放されることを望んでおられるためであると説かれた。

神の救いはすべての人、すべての民に与えられ、誰も除外されることはないと教皇は強調。

同時に、誰一人として、自分は完璧だ、自分はすでに救われていると言うことはできないと指摘された。

わたしたちは常にこの救いの恵みを受け入れなければならないと教皇は述べつつ、間もなく開幕する「いつくしみの聖年」を、イエスの教えた道、救いの道をもっと前進するための機会として示された。








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