11月18日バチカン聖ペトロ広場での水曜恒例一般謁見のカテケシスで教皇フランシスコは来月に迫っている「神の憐みの聖年」について、わたしたちの前に「憐みの聖年の聖なる門」だけでなく、なによりも「神の憐みの大きな扉」が開かれるのだと話された。
この日もローマの寒空の下,バチカンの聖ペトロ広場は朝早くから 教皇の話に耳を傾けその祝福を受けようと世界各国からの巡礼者や信徒でいっぱいになった。
定刻通り広場に姿を現した教皇フランシスコは,にこやかに信徒たちの歓迎の拍手に答えながら席に着かれ,一般謁見は開始された。
いつものように各国語での聖書朗読に続き、教皇自身によるカテケシス(教会の教えの解説)が行われた。
この日は来月に迫っている神の憐みの聖年を中心に教皇は話を進めた。神の憐みの扉は大変美しい扉でありわたしたちの罪の痛快を受け入れ赦しを与えてくれる扉であると次のように話された。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、神の憐みの聖年開始が来月に迫ってきています。聖なる扉、神の憐みの大きな扉が私たちを迎え入れてくれます。罪を悔やみその赦しを願いましょう。憐みの扉は大きく開かれます。でもわたしたちの側からも扉に足を踏み入れるための勇気が必要です。わたしたちは皆自分自身の中で自分は罪びとであるということを実感しています。神のもとに戻るためにこの聖年という素晴らしい機会を利用いたしましょう。神は赦すことに疲れることは決してありません。神はいつもわたしたちのすぐそばにいてくれます。さあ、勇気をだしてこの憐みの扉をくぐりましょう。
教会もその扉を道に迷った人々に大きく開きます。
先月10月に終わったばかりのシノドス「世界代表司教会議」が全世界の教会も家族もこの聖年の開かれた扉をくぐるよう励ましています。
また教会はその扉を、主に出会いに行くために、またこの困難な時代に道を踏み外したり、道に迷ったりする息子や娘たちに出会いに出て行くために大きく開くよう招かれました。そして特にキリスト教家族たちは、祝福と愛をもたらすために入ろうと待っている主にその扉を開くよう勧められています。
神の憐れみの扉がいつも開いているなら、わたしたちの教会の扉も、共同体の愛の扉も,小教区の扉も、わたしたちの制度の扉も、各教区の扉もすべていつも開かれているべきです。なぜならこうしてわたしたちは開かれた扉から神の憐れみを外にもたらすために出て行くことが出来るからです。
聖年は神の憐れみの大きな扉を意味します。しかし同時にわたしたちの小さな教会の小さな扉も主が入ってくることができるよう開いておくことも意味します。そしてさらにしばしば制度の中に、利己主義や他の多くの雑物の中に囚われの身となっている主を自由に出て行けるように扉を開けておくことを意味します。
主は決して扉をこじ開けようとはしません。主は入ってもいいかと許可を願います。決して無理強いはいたしません。事実、聖ヨハネの黙示録も主の言葉として伝えています「わたしは扉の前に立って叩いている」。
わたしたちの心の扉を叩いている主の姿を想像してみてください。主は言われます「もし誰か、わたしの声を聞き、扉を開けてくれるなら、私は彼のところに行き、彼と食事を共にしよう。そして彼もわたしと共にいるだろう」。
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