2015-10-12 11:47:00

イエスの三つの眼差しを観想、教皇、日曜正午の集いで


教皇フランシスコは、10月11日、バチカンで日曜正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

集いの説教で、この日の朗読箇所、マルコ福音書10章(17-30節)を取り上げた教皇は、ここに見られる「イエスの三つの眼差し」について観想された。

この箇所では、イエスと一人の金持ちの男との出会いが語られる。マタイ福音書に記される同じエピソードには、この人物は金持ちの青年として登場する。

教皇はこのエピソードを三つの場面に分けて考えられた。

最初の場面で、この人物はイエスに走り寄って、ひざまずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねる。これに対してイエスは隣人への愛を要約する掟を示して答えた。

「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言うこの青年が、さらなるものを求めていることを見抜いていたために、イエスは彼を見つめ、いつくしまれたと教皇は述べ、イエスの慈愛にあふれる眼差しに注目された。

しかし、同時にこの若者の弱点をも理解したイエスは、「あなたに欠けているものが一つある」と言い、持っている物を売り払い、貧しい人々に施し、自分に従うようにと招いた。

教皇は、神と富という二人の主人の間で心が揺れた青年は、悲しみながら立ち去ることになり、彼の当初の情熱は、挫折感のうちにしぼんでしまったと話された。

二つ目の場面で、イエスは弟子たちを見回し、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言った。教皇はここにイエスの苦痛に満ちた二つ目の眼差しを見出された。

「それでは誰が救われるのだろうか」と驚き言い合う弟子たちに、イエスは三つ目の眼差しを向ける。その眼差しは、勇気づける眼差しであったと教皇は説いた。

イエスは弟子たちを見つめ、「人間にできることではないが、神にはできる」と言い、主に信頼するならば、信仰の歩みを妨げるあらゆる障害を乗り越えることができると明言された。教皇は、主こそがわたしたちに力を与え、救いに導くと強調された。

三つ目の場面では、イエスは、ご自分のためにすべてを捨てた者は、今この世で迫害も受けるが、捨てたものの百倍を受け、後の世では永遠の命を受けると、荘厳に宣言される。

教皇は、この青年はイエスの愛の眼差しに自らを委ねなかったために、自分を変えることができなかったと述べ、謙遜な感謝をもってイエスの愛を受け入れることだけが、偶像の誘惑や幻想からわたしたちを解放することができると話された。

そして、教皇は聖ペトロ広場に集った若者たちに、「イエスの眼差しを皆さんの上に感じましたか?皆さんはそれにどう答えますか?イエスの与える喜びを胸に帰りますか、それともこの世のことでいっぱいの心に悲しみながら帰りますか?」と尋ねられた。








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