2015-08-23 18:48:00

「イエスは自分にとってだれなのか」を自問しよう、教皇、日曜の集い


教皇フランシスコは、8月23日、バチカンで日曜正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

祈りの前の説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、シモン・ペトロがイエスに「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます」と信仰告白する場面(ヨハネ6,60-69)を取り上げられた。

イエスはパンを増やした奇跡の後、「わたしが命のパンである」と宣言し、ご自分の命の犠牲を暗示しながら、ご自分の肉を食べ物、血を飲み物として与えると話された。この箇所では、それを聞いた弟子たちの反応が記される。

弟子たちの多くは、「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と、イエスの言葉を拒絶した。教皇は、ある弟子たちはイエスに成功と勝利に満ちたメシア像を期待していたために、イエスをそれにふさわしくない者と判断したと述べられた。

イエスの言葉は常に、特に世俗の精神を前に、わたしたちを困難に陥れるが、イエスはそれを克服できるよう3つのヒントを与えていると教皇は説明。イエスが弟子たちに、1.「人の子はもといた所に上る」と、その神としての生まれを示し、2.「命を与えるのは霊」であり、聖霊を通してのみ、イエスの言葉が理解できると教え、3.「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」と信仰の不足を指摘している点を示された。

実際、信じない者たちは「離れ去り、イエスと共に歩まなくなった」(66)。イエスは言葉を緩めず、さらに「あなたがたも離れて行きたいか」(67)と十二人の弟子に問いかけた。すると、シモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます」(68)と答えた。

教皇は、この信仰宣言でペトロが「どこに行きましょうか」ではなく、「だれのところに行きましょうか」と言っていることに注目。神への忠実は、自分が共に同じ道を歩むために結ばれたある一人の人への忠実であり、その人とはまさにイエスなのであると説かれた。

「わたしたちがこの世に持っている何をも、わたしたちの永遠への渇きを満たすことはできない。わたしたちはイエスを必要とし、イエスと共にいて、その食卓と永遠の命の言葉で養われることを望んでいる」、「イエスを信じることは、イエスをわたしたちの人生の中心、意味とすること」と述べた教皇は、わたしたちを鎖でつなぐのではなく、自由にするイエスと、真の信仰と愛で結ばれて歩いていくよう、信者を励まされた。

そして、教皇はこの機会に「イエスは自分にとってだれなのか」「自分はイエスと共にいるのか」を問うように、皆を招かれた。








All the contents on this site are copyrighted ©.