2015-08-12 16:59:00

祭日は神が家庭に与える貴重な贈り物、教皇、一般謁見で


教皇フランシスコは、8月12日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は家庭をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)として、家庭生活のリズムとなる「休祭日」「仕事」「祈り」に注目しながら、今回は「休祭日」をテーマに取り上げられた。

「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」という創世記の言葉(2,2-3)を教皇は引用。

休日は神によって創られたものであり、神ご自身が、仕事の成果を振り返り満足するための時間を持つことの大切さを教えておられると話された。

休日とは、ソファーの上で怠惰に過ごすことでも、浮薄な気晴らしに明け暮れることでもなく、何よりも、よく成された仕事を愛情と感謝をもって見つめることであり、神が天地を創造された時のように、子どもや孫たちの成長を見て、これを「良し」とし、家や友人や自分たちを取り巻く共同体を見て、これを「良し」とすることであると、教皇は説かれた。

教皇はまた、人は悲しみや苦しみの中で休祭日を迎えることもあるだろうが、こうした時も、祭日が完全に虚しいものにならないよう神に力を請わなくてはならないと話された。そして、悲しみの中にも、子どもたちから祭日の喜びを奪わないように配慮する両親たちの行為は、実に大きな愛であると称えられた。

本来、祭日とは仕事を休止すべきものであると教皇は指摘。それは人間が神の似姿に創られた者であり、人は労働に仕えるのではなく、主に仕えるのであり、人は決して労働の奴隷であってはならないからであると話された。

しかしながら、多くの人々、子どもまでもが労働の奴隷となっている現実を見つめられた教皇は、これは神に反し、人間の尊厳に反することであると強調。

経済利益と技術効率主義への強迫観念が、人間生活のリズムを危機に陥れ、休養のための時間、特に本来生産も消費も売買もしないよう設けられたはずの日曜日が、利益と消費のイデオロギーによって、お金をもうけ、お金を使う日となってしまったことを憂慮された。

「祭日は、神がその中に特別な形でおられるがゆえに聖なるもの」とする教皇は、日曜日のミサは、イエス・キリストの恵み、その現存、愛、犠牲、共同体のすべてを祝うものであり、そこではわたしたちの受け取るすべての現実、仕事、家庭、喜びや、苦しみ、死までもが、すべてキリストの恵みに変容されていくと話された。

「祭日は、神が家庭に与える貴重な贈り物です。それを傷つけないようにしましょう」と教皇は信者たちに呼びかけられた。








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