2015-06-18 12:00:00

教皇フランシスコによる回勅「ラウダート・シ」要旨


「わたしたちの後に続く人々、また今成長しつつある子供たちのために、わたしたちは一体どのような世界を残していきたいのでしょうか」(160)

この質問こそ、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の中心である。回勅はこう続けている。「この質問は、ただ環境に関してのみ問われているのではありません。なぜなら、この問いは総合的に捕らえられるべきものだからです」。これはさらに、存在意義そのもの、また社会生活の根底にある価値に対する問いかけでもある。「何のためにわたしたちはこの世に生まれてきたのだろうか。また、何のために働き、苦労するのだろうか。なぜこの世界はわたしたちを必要としているのか」。「これらの根本的な問いかけ無しに、わたしたちの環境問題に関する配慮は、重要な結果をもたらすことはないでしょう」と教皇は言う。

回勅の表題は、アッシジの聖フランシスコの「太陽の賛歌」の中の言葉「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ」(「わたしの主よ、あなたは称えられますように」の意)から取られている。

聖フランシスコのこの賛歌は、地球、世界はわたしたち皆の家であり、同時に「わたしたちと同じように神からその存在を受けた姉妹、またわたしたちを腕の中に抱いてくれる母のような存在である」(1)ことを思い起こさせてくれる。聖書の教えによれば、わたしたち自身、土から作られたものである。(創世記2,7)。わたしたちの身体そのものも、この地球の要素から構成されている。空気はわたしたちに呼吸を与え、水はわたしたちを生かし、憩わせてくれる。(2)

今、この地球は蹂躙され、嘆き苦しんでいる。そのうめき声は、この世界のすべてのうち捨てられた人々の嘆きに重なる。教皇フランシスコは、この嘆き声に耳を傾けるよう招いている。そして、すべての人々に、個人、団体、家族、社会共同体、国々、国際社会にも、教皇ヨハネ・パウロ2世が唱えた、いわゆる「環境的回心」を呼びかけている。それは、すなわち「皆の共通の家を保全するため」、責任をもってその美しさを守るために、「方向性を変えていくこと」を意味する。

しかし、同時に、教皇フランシスコは、今日、環境や自然保護に対する人々の関心が高まっている事実にも目を向け、また、わたしたちの住む地球上で起こっていることに関しての成熟した誠実な憂慮をも指摘している。(19)回勅は、すべての人々に希望に満ちた明白なメッセージを送っている。「人類はわたしたちの共通の家を建設するために、協力する可能性を持っています」。(13)「人間はまだ良い方向に向けて働きかけることができるのです」。(58)「まだ、すべてが失われたわけではありません。なぜなら、人間は最悪の状態に陥る可能性もありますが、またそれを克服することも、善を選択することも、生まれ変わることもできるのです」。(205)

教皇フランシスコは、聖ヨハネ・パウロ2世の言葉を引用しながら、カトリック信者たちに呼びかけている。「特にキリスト教徒たちは、創造界における自分たちの任務や、創造主や大自然に対するその義務を自覚しています。なぜなら、それらも信仰に属することだからです」。(64)そして、わたしたちの共通の家に関して、すべての人々との対話が提示されている。(3) 

第5章の全テキストは、問題解決の手段としての対話に関するものである。最初から、教皇フランシスコは「東方教会やプロテスタントまた他の宗教も、エコロジー問題に関して、深い配慮と貴重な考察を発展させてきた事実を」指摘している。(7)教皇は、第8項と第9項で、コスタンティノポリ総大主教をはじめ、いくつかの実例を引きながらそれを幅広く解説している。また、教皇はこれに関して、各個人やいくつかの組織などの仕事に感謝を表している。「数多くの科学者、哲学者、神学者や、社会組織が、このような問題に関する教会の考えを豊かにしてくれました」と述べ、「総合的エコロジーや人類の全体的な発展のために、宗教がもたらす豊かさを認めるよう」皆に呼びかけている。(62)

回勅の内容の流れはn.15に示され、それは6つの章につながっていく。環境問題に関する最新の科学的成果から始まり(1章)、聖書やユダヤ・キリスト教的な伝統に照らし合わせ(2章)、技術優先主義や人間の極端な自立志向という問題の原因を追及している(3章)。

回勅が提案するもの(4章)は、環境問題と緊密に結びついた「人間的・社会的側面を明確に含む、統合的なエコロジー」である。(137)このような展望の中で、教皇フランシスコは社会的・経済的・政治的生活のあらゆるレベルにおいて、透明な決定プロセスを築く誠実な対話を開始することを提案している。(5章)そして、いかなるプロジェクトも、それが責任ある良心によって生かされていないならば、決して効果的ではあり得ないと指摘する。この方向性において成長するために、教育的、霊的、教会的、政治的、神学的ないくつかの点を勧告している。(6章)本文は、2つの祈りをもって終わっている。一つは「創造主であり父である神」(246)を信じるすべての人々に向けられ、もう一つはイエス・キリストに対する信仰を表明する人々に向けられてる。この祈りには、この回勅がそれに始まりそれに終わる、「ラウダート・シ(称えられますように)」という言葉が繰り返されている。

回勅は様々なテーマを取り扱っているが、その根底には強い一貫性が認められる。それらは、「地球の脆さと貧しい人々との間にある密接な繋がり、すべてが世界の中で緊密に関連し合っているという確信、テクノロジーに由来する新たな形の権力に対する批判、経済や進歩についての新たな理解の仕方を模索するようにとの招き,あらゆる創造物が持つ価値の確認、エコロジーに関しての人間的意義、誠実かつ正直な議論の必要性、各国における政治また国際政治の責任の重大さ、消費主義や生活の新しいスタイル」といったテーマである。(16)

第1章  わたしたちの家で起こっていること

この章では、環境問題に関する最新の科学的成果を要約し、それを、自然が上げる叫びにいかに耳を傾け、「この世界に起きている苦しみを、自分自身のものとし、各自にとってどのような貢献が可能かを認識する」方法としている。(19)こうして「現在の環境危機のいろいろな様相」と向き合っている。(15)

気候の変動:「気候の変動は、環境や、社会、経済、政治をも巻き込む様々な大きな問題を提起し、人類にとっての主な現実的挑戦の一つとなっています」。(25)「もし気候が共通の財産であるならば、それはすべての人々のものであり、またすべての人々のためでもあります。」(23)気候変動の影響を最も被るのは、最も貧しい人々である。しかし「経済的、政治的に多くのものを保持している人々は、問題を軽視し、その兆候を隠匿しようとします。」(26)「わたしたちの兄弟姉妹たちのこれらの悲劇を前に無反応でいることは、あらゆる社会の基礎である兄弟姉妹らへの責任感の喪失のしるしです。」(25)

水問題:「安全な飲料水へのアクセスは、人間の最も本質的、根本的、総合的な権利です。なぜなら、これこそ人間の生存を規定するものであり、他の人権行使のための条件でもあるからです」と、教皇ははっきりと述べている。貧しい人々に水が欠乏すると言うことは、「不可侵の尊厳に根ざす生命への権利」を否定することである。(30)

生物学的多様性の保護:「毎年何千と言う動植物種が姿を消していきます。わたしたちの子孫は絶滅していったものを永久に見ることはできません」。(33)これらは、役立つものだけについて言っているのではない。すべてはそれ自体に価値を持っている。こうした視点の下、教皇は言う。「人間によって引き起こされた問題を解決しようと努力している科学者や技術者たちのの努力は賞賛すべきものです。しかし、こうした人間の働きかけが、儲けや消費主義のためになされる時、わたしたちが生きる地球は今より豊かで美しいものではなくなり、限りある灰色のものとなります。」(34)。

環境的負債:国際関係倫理において、回勅は「真の環境的負債」が、特に世界の南よりも北において存在していることを指摘している。(51)気候の変化に関しては「様々な責任」が考えられる中で、特に先進諸国の責任がより重いことが示される。(52)

このような問題に対する深い不一致において、教皇フランシスコは多くの人や市民の悲劇に対する人々の「反応の薄さ」に驚きを隠さない。前向きな例がないわけではないが(58)、「ある種の無感覚、無責任」に警告を発している。(59)適切な文化(53)と、ライフスタイル・生産・消費の変革(59)に取り組む意志が欠如している一方で、「環境保全に関する規定の制定」が急務となっている。(53)

第2章  創造の福音

前章で取り扱った問題に関して、教皇フランシスコは聖書に語られる事柄を取り上げ、ユダヤ教およびキリスト教的伝統に沿った視点から、総合的な見方を提示し、自然に関して人類が負わされている「恐るべき責任」(90)、すべての創造物の間に存在する親密な関わり、「環境は共通の財産であり、全人類の遺産、すべての人々の責任である」事実について語っている。(95)

聖書の中で「解放し、救う神は、世界を創造された同じ神です。神の中で、愛と強さは一致します。」(73)中心となるのは、人間と他の被造物との関係を、またいかに罪が全被造物の調和を破壊したかを考えさせる、天地創造の物語である。「これらの物語は、人間存在が緊密に結ばれた3つの根本的関わりにその基礎を置いていることを分からせてくれます。それは、神との関わり、人間同士の関わり、そして地球との関わりです。聖書によれば、この重要な3つの関わりは、外部だけでなく、わたしたちの内部でも壊されました。この破壊こそが罪なのです。」(66)

「キリスト教徒は、時に聖書を正しくない方法で解釈しましたが、今日、わたしたちは人間が神の似姿に創られ、地を支配せよとの命令を受けたからといって、無制限に他の被造物を支配できるという考え方は強く拒否すべきです。」(67)人間は、「この世界を耕し、守る」べき責任を負っている。(創世記2,15)(67)「他の被造物の最終目的は、わたしたち自身ではない。全被造物は、わたしたちと共に、わたしたちを通して、共通の目的地、すなわち神に向かって前進している」ということを知るべきである。(83)

人間は、全世界の主人ではないということは、「すべての命あるものを同一視し、それらを特徴付けている独自の価値を取り去る」ということを意味しない。また「地を神格化するように振舞うことは、その脆さを守るために協力するようにとの招きをわたしたちから奪ってしまいます。」(90)「被造物に対するいかなる虐待も、人間の尊厳に背くことです。」(92)しかしながら、「もし、心の中に人間に対する優しさや同情、配慮を同時に持たないならば、自然の他の存在に対する一致の思いも本物とはなり得ません。」(91)わたしたちには、全世界の交わりへの認識が必要である。「同じ父によって創造されたわたしたちは、皆世界に生きるものとして、目に見えない絆によって世界家族を形成し、それはわたしたちを聖なる、愛と謙遜に満ちた尊重へと導くのです。」(89)

この章はキリスト教の啓示の核心でもって閉じられる。「地上に生活されたイエス」は、「この世との間に持たれた具体的な愛の関係」をそのまま保ちつつ、「栄光の中に復活し、全世界を統治するその支配をもって、すべての被造物の中に現存されます。」(100)

第3章 環境危機の人間的原因

この章は、「現象だけでなく、さらに深い原因をも集めながら」(15)、哲学や人間科学との対話のうちに、現状を分析している。

この章の最初の要点は、テクノロジーをめぐる考察である。テクノロジーが生活水準の向上をもたらしたことに感謝しつつも(102~103)、それが「知識や経済力を持つ人々に、人類と全世界における強大な支配力を付与する」事実をも指摘する。(104)

まさしくテクノクラシーによる支配論理が、自然を破壊し、最も弱い立場の個人や民族を搾取する。「テクノクラシー的な考え方は、経済や政治の上にその支配力をおよぼそうとの傾向を持ちます。」(109)そして、「市場だけでは、統合的な人類の発展と社会的包摂を保証することはできない」という認識を妨げます。(109)

近代文明の根底には、極端な人間中心主義が横たわっている。(116)人類は、もはや世界における自分自身の正当な位置を認めず、自己の能力を過信し、自己とその権力にのみ意識を集中している。そこから、もう一つの論理、すなわち「使い捨て」の論理が生まれる。それは、環境であれ人間であれ、あらゆるものの使い捨てを正当化する。他人や自然を単なる物とみなし、無数の支配形態を生み出す。この論理が、子どもたちの搾取、老人遺棄、他人の奴隷化、人身売買、絶滅動物の毛皮や「血まみれのダイヤモンド」の売買をもたらすのである。それは、多くのマフィアや、臓器売買、麻薬取引、胎児の中絶などと同じ論理である。(123) 

この光に照らし、回勅は、今日の世界を悩ませる2つの問題と向き合っている。まずは労働問題である。「いかなる統合的環境政策も、人間を除外することがあってはならず、それは労働の価値を包括するものであることが不可欠です。」(124)同様に「即時により大きな利益を得るために、人間に対する投資を放棄することは、社会に何の益をももたらしません。」(128)

二つ目は、科学的進歩の限界をめぐり、特に「複雑な性格の問題」であるOGMについて明白に言及している。(135)たとえ「ある地方でその利用が経済的成長をもたらし、それがいくつかの問題の解決に貢献したとしても、同時に見逃すことができない困難をも生み出している」。それは「生産のための土地が少数の人々の手中に集中する」という問題などである。(134)教皇フランシスコは、特に弱小生産者や農耕従事者を思うと同時に、生物学的多様性、環境システム網などに目を向けている。そして「独立あるいは共同の研究のあり方」をはじめ、「得られるすべての情報を考慮可能な、広範囲で責任ある社会的・科学的な討議の必要」を指摘している。(135)

第4章 統合的エコロジー

回勅の提案の中心は、正義の新しい考え方としての統合的なエコロジーである。それは「人類がこの世界で置かれた位置と、それを取り巻く現実を統合した」エコロジーを言う。(15)実際、わたしたちは「自然を我々から離れたもの、もしくは我々の生活の単なる縁取りのようなものと考える」ことはできない。(139)これはわたしたちが生きる様々な分野、経済、政治、文化、わたしたちの日常生活にも関わってくることである。

統合的な考え方は、制度のエコロジーにも関わってくる。「すべてが関わり合っているならば、ある社会制度の健全さもまた、環境と人間の生活に影響をもたらすことになります。市民間の連帯と友好の亀裂は、環境にもダメージを与えます。」(142)

教皇フランシスコは、多くの具体例を挙げながら、環境問題と社会・人間問題の結び付きは決して切り離せないという考えを強調する。「環境問題の分析は、人間・家庭・労働・都市、そして一人ひとりの自分自身との関係の分析と切り離すことができません。」(141)「環境危機と、社会危機という二つの危機があるわけではありません。そこには、ただ一つの複雑な環境・社会問題があるだけです。」(139)

この統合的エコロジーは、「共通善の概念と密接に結びついている」が(156)、それは具体的に解釈されなければならない。「多くの不平等が見られ、基本的人権を保障されないまま、より多くの人々が見捨てられる」今日において、共通善に取り組むとは、「貧しい人々を優先する」(158)という基本の上に、連帯的選択をすることである。これはまた、次の世代に持続的発展可能な世界を残すための最良の方法である。それは言葉上の呼びかけだけでなく、今日の貧しい人々に対する実際の取り組みを通してなされるべきである。それはベネディクト16世がかつて強調したとおりである。「世代を超えた誠実な連帯はもとより、各世代ごとに新たな連帯の倫理が急務であることを繰り返す必要があります。」(162)

統合的エコロジーは、日常生活にもぶつかる問題である。回勅は都市生活に特別な注意を向けている。人間は大きな順応能力を持ち、それは「個人とグループの賞賛すべき創造性と寛大さによって、環境的限界を覆す力を持つものです[…]無秩序と不安定な状態の中で、その生活を方向付けることを学びます。」(148)しかしながら、真の発展とは、公共スペース、住居、交通等々、人間生活の質の統合的な改善を前提とするものである。(150-154)

また「わたしたちの体も環境と他の生物との直接の関係にあります。自分の体を神の贈り物として認めるには、全世界が御父の贈り物であり、共通の家であることを、受け入れ認めることが必要です。これに対し、自分の体を私物化する論理は、しばしば支配の論理に変化することがあります」(155)

第5章 いくつかの方向性と行動

第5章では、わたしたちに何ができるか、何をすべきかとの問いと向かい合う。分析だけでは足りない、「わたしたち一人ひとりから、国際政治に至るまでを巻き込む対話と行動」を提案することが必要と述べている。(15)そして、それが「わたしたちが直面する自己破壊の連鎖から抜け出させる」としている。(163)

教皇フランシスコにとって、具体的な歩みの構築が、イデオロギー的、表面的、矮小主義でないことは当然の条件である。それゆえ、この章の各タイトルが示しているように、対話は不可欠なものとなる。「環境をめぐる問題については様々な議論があり、妥協に至るのは難しいでしょう。教会はそれらの問題に科学的、政治的な定義を強要することはありませんが、一部の必要やイデオロギーが共通の財産を傷つけることがないように、正直で、透明性のある対話に招きます。」(188)

これを基本として、教皇フランシスコは、最近の国際情勢に厳しい評価を与えることを恐れない。「ここ数年の環境をめぐる世界会議は期待に応えてきませんでした。なぜなら政治的決断の欠如のために、環境に対する実際に意味と効果のあるグローバルな合意に至らなかったからです。」(166)そして、教皇は問う。「緊急で必要なことをするために介入しなかった無能さを将来思い出されるであろうその権力に、なぜ、しがみつきたいのでしょうか。」(57)必要なのは、ヨハネ23世の回勅「地上に平和を」をはじめ、教皇たちが何度も訴えてきたような、グローバル・ガバナンスの効果的な形と道具を提案することである。(175)「わたしたちはすべてのいわゆるグローバルな共通財産に関して、ガバナンス上の合意を必要としています。」(174)「環境保護は、経済的コストと利益計算だけの上に、保証することはできません。環境とは、市場のメカニズムが保護したり、適切に推進することのできない財産の一つです。」(190、参考「教会の社会教説要綱」)

同章で、教皇フランシスコは、政治や企業が「真の総合的発展」に寄与するための、正直で透明性のある発展プロセスを強調している。(185)特に新しい計画について環境への影響を研究するには、「透明な政治プロセス、対話が必要な一方で、収賄は利益と引き換えに環境への真のインパクトを隠し、しばしば情報を与える義務と掘り下げた議論から逃れ、曖昧な合意へと導きます。」(182)

特に強調されているのは、政治的立場にある人たちへの、今日よく見られる「効率主義や、すぐに結果を求める態度」を改めるようにというアピールである。(181)

第6章 環境的教育と霊性

最終章は、この回勅が招くエコロジー的回心の中心へと向かう。文化的危機の根源は深く、習慣や態度を改めることは容易ではない。教育と育成はこの挑戦において主となるものである。「すべての変化には動機と教育的歩みが必要です。」(15)そのためには、「学校、家庭、コミュニケーション手段、要理教育」といったすべての教育環境を巻き込まなくてはならない。(213)

まず、はじめに「違う生活スタイルを目指すこと」である。(203-208)それは「政治・経済・社会において権力を持つ人々に健全な圧力をかけることも可能です。」(206)その時、消費者の選択が「企業の態度を変え、環境への影響と生産モデルを考えさせる」ことになる。(206)

環境教育の重要性を低く見ることはできない。これは日常生活の態度に影響を与えるものであり、水の節約から、ごみの分別、さらには「無駄な明かりを消す」ことにまでつながる。(211)「統合的なエコロジーは、小さな日常の態度からできており、その中でわたしたちは暴力や搾取、エゴイズムの論理を打ち砕くことができます。」(230)これらは信仰から来る観想的な眼差しを持つことでもっと容易になるだろう。「信者にとって、世界は外側からではなく、内側から観想するものであり、天の御父がわたしたちをすべての被造物と一致させた絆を認識させるのです。さらに、エコロジー的回心は、神がそれぞれの信者に賦与された特別な能力を育てながら、信者の創造力と熱心さを発展させるように導きます。」(220)

『福音の喜び』にある「自由と自覚のもとに生きる簡素さは、人を自由にする」という提案に帰りながら(223)、「幸福はわたしたちの気を散らすいくつかの必要を制限することを求めます。こうして人生が差し出す様々な可能性に対応できるようになるからです。」と述べている。これによって「互いの必要性、他の人々と世界に対する責任、善良で正直であることの価値を再び感じること」ができるようになる。(229)

聖人たちはわたしたちのこの歩みを見守ってくれる。この回勅で何度も言及される聖フランシスコは、「弱い人々への配慮と、統合的なエコロジーを、喜びをもって体験することの非常に優れた模範」であり(10)、「自然への配慮と、貧しい人々のための正義、社会における取り組み、内的平和が、相互に密接に関連している」ことを示すモデルである。(10)同時に、回勅は聖ベネディクト、リジューの聖テレジア、福者シャルル・ド・フーコーについても触れている。

回勅「ラウダート・シ」の後、自分の生き方を主との関係において見直す「良心の究明」においては、神との交わりだけでなく、他の人々、また自分自身、そしてすべての被造物と自然との交わりをいかに生きたかが問われなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 








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