2015-05-13 13:34:00

家庭生活のための3つの言葉、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、5月13日バチカンで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は家庭をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)として、この日は「家庭生活をよりよくするための3つの言葉」を取り上げられた。

教皇が示されたこの3つの言葉は、「~してもいいですか?」「ありがとう」「ごめんなさい」。これらはいわば当たり前の礼儀であるが、この普通の礼儀こそが大切であると説かれた。

「礼儀正しい態度だけで、すでに聖性の半分をなしている」という聖フランシスコ・サレジオの言葉を教皇は紹介する一方で、礼儀が単なる形式・仮面となる危険をも指摘。教皇は、ここでは善意の愛と相互の尊重に基礎を置く真の意味での礼儀について話したいと述べられた。

まず「~してもいいですか?」という言葉について、教皇は、他人の生活に立ち入る時には押し付けがましくならない配慮が必要であり、それが信頼や尊重を新たにすると指摘。親しさゆえに、何をしてもかまわないということはありえず、むしろ愛が深ければ深いほど、相手の自由を尊重し、相手が心を開くのを待つことができると話された。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう」(黙示録3,20)というイエスの言葉を教皇は引用。主でさえも入るために尋ねていることを忘れてはならないと述べられた。

2つ目の言葉「ありがとう」をめぐって教皇は、無礼な態度や乱暴な言葉が進歩のしるしだと思われ、親切や感謝が弱さと受け取られたり、さらには不信さえ招くような、最近の風潮を懸念。家庭の中でも、社会においても基礎となるこの感謝の態度の重要さについて、わたしたちは決して譲ってはならないと強調された。

また、「キリスト者にとって、感謝とは信仰の中心そのものである。感謝できないキリスト者は、神の言葉を忘れた者である」と教皇は述べ、重い皮膚病を患った10人がイエスに癒された後、ただ一人だけが神を賛美しながら戻ってきたエピソード(ルカ 17,18)を思い起こされた。

最後の「ごめんなさい」に関して、これほど難しい一方で、これほど必要とされている言葉であると強調。謝ることができないところには、小さなひびが入り、それはいつか大きな溝になってしまうと教皇は話された。

イエスが教えられた「主の祈り」の中にも、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」とあるように、あやまちを認めることで、赦しにふさわしい者となると教皇は述べ、謝ることができない者は、赦すこともできないと説かれた。

「謝ることができない家庭は、息苦しく、よどんだ雰囲気に満ちてしまう。多くの愛情の傷や家庭の苦しみは、この『ごめんなさい』がないことから始まっている」と教皇は指摘。喧嘩をしてもそれを翌日に持ち越さず、言葉でなくても、優しい態度で、その日のうちに仲直りするよう、助言された。

「家庭生活の鍵となるこれら3つの言葉は、あまりに簡単で、微笑ましくさえ思われるかもしれません。でもこの言葉を忘れてしまったならば、もう笑うどころではありません。わたしたちの礼儀はおそらくあまりに軽んじられているのでしょう。これらの言葉が正しい場所に、わたしたちの心に、家に、社会にもたらされますように」このように教皇は祈られた。

この日は、カトリック教会の暦で、ファティマの聖母が記念された。教皇は、若者たちにロザリオの祈りを通して神の母への信心を育むように、病者には苦しみの中に聖母の存在を感じるように、そして、若い夫婦たちには家庭に相互の愛と尊敬が常にあるように聖母に祈りましょうと招かれた。

 








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