2015-04-05 12:57:00

復活徹夜祭:教皇「目覚めて過ごし、外に出て、神秘の中に入っていこう」


教皇フランシスコは、4月4日夜、バチカンで復活の聖なる徹夜祭をとり行われた。

復活祭前日「聖土曜日」の夜から、主の復活の日曜日の夜明けの間に、主キリストの復活を待ちながら祈り、その過ぎ越しを祝う荘厳な儀式、復活徹夜祭が祝われる。

聖ペトロ大聖堂で捧げられたこの儀式で、教皇は祝別された復活の大ろうそくを掲げ、復活の光を示されながら入堂された。ともし火は参加者らの手にするろうそくへと広がり、聖堂内に次第に光が満ちていった。そして、助祭によって復活賛歌が朗唱され、復活の主の勝利が高らかに宣言された。

また、復活徹夜祭の伝統として、成人の洗礼式が行なわれた。教皇は、イタリア・アルバニア・カンボジア・ケニア・ポルトガル出身の10人の男女に洗礼を授けられた。

教皇はこの復活徹夜祭の説教で、イエスの受難後にとった女弟子たちの行動に注目し、「目覚めていること、外に出ること、神秘の中に入ること」の大切さについて次のように話された。

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この夜は、目覚めている夜です。
主は眠ることなく、ご自分の民を見守るために目覚め(詩編121,4)、民を隷属から解放し、自由への道を開いてくださいます。
主は見守り、その愛の力をもって民に紅海を渡らせ、そしてイエスに死の奈落と冥界を渡らせてくださいました。

この目覚めの夜は、イエスの男女の弟子たちの夜です。それは苦しみと怖れの夜です。男弟子たちは高間の中に閉じこもってしまいました。それに対して、女弟子たちは土曜日の翌日の朝早く、イエスの体に香料を塗るために墓に向かいました。彼女たちの心は思いであふれ、「どうやって墓に入るのでしょう。誰が墓石を転がしてくれるのでしょう」と考えていました。しかし、ここに最初のしるしがあります。大きな石はすでに転がされ、墓は開いていたのです。

「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた...」( マルコ16,5)婦人たちは最初にこの大きなしるしを見たのです。それは開いた墓でした。最初にそこに入ったのは彼女たちでした。

「彼女たちは墓に入りました」この目覚めている夜に、わたしたちにも問いかける、このイエスの女弟子たちの経験について今一度考えるのは、ためになることです。実際、わたしたちはそこに入っていくために、神が愛と共に目覚めながらこの夜に成し遂げた神秘の中に入っていくために、ここにいるのです。神秘の中に入ることなく、主の復活を生きることはできません。それは知性で理解することでも、知ることでも、読むことでもありません。もっと、ずっと、それ以上のことなのです。

「神秘の中に入る」それは、驚き、観想する能力を持つこと、沈黙に耳を傾け、神が私たちに語りかける静かにささやく声(列王記上 19,12 )を聞く力を持つことです。

神秘の中に入るには、現実を恐れないことが必要です。自分に閉じこもり、理解できないことから逃げ、問題に目をつぶり、否定し、自分への問いを避けることはできません。

神秘の中に入るとは、わたしたちを引き止める安穏さ、怠惰、無関心を乗り越え、真理と美と愛の探求に乗り出し、わたしたちの信仰、誠実さ、理性を揺るがす問いに対し、ありきたりでない意味と答えを求めることなのです。

神秘の中に入るためには、謙遜が必要です。自分を低くし、プライドや傲慢という台の上から降りるための謙遜、自らを見直し、被造物として、長所も短所も持ち合わせた、赦しを必要とする罪びととして、自分をありのままに認める謙遜です。

神秘に入るには、無力になり、自分を偶像視化しない、この謙遜が必要です。そして、賛美...、賛美なくしては神秘の中に入ることはできません。

これらすべては、イエスの女弟子たちが教えてくれることです。彼女たちは、イエスの母と共に、あの夜を目覚めて過ごしました。そして、おとめなる母は、彼女たちが希望を失うことがないようにと支えました。こうして、彼女たちは怖れと苦しみに囚われることなく、手に香料と、愛に満たされた心をもって、曙の光と共に外に出ました。外に出て、開いた墓を見つけました。そして、中に入ったのです。彼女たちは目覚めて過ごし、外に出、そして神秘の中に入りました。

神とわたしたちの母マリアと共に目覚めて過ごし、わたしたちを死から命へと渡らせる神秘の中に入ることを、彼女たちから学びましょう。

 








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