2015-04-01 15:54:00

聖なる過ぎ越しの3日間をテーマに、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、4月1日の一般謁見で、復活祭を前に、「聖なる過ぎ越しの3日間」について講話された。

4月5日(日)にカトリック教会の典礼暦は復活祭を祝う。これに伴い、復活祭直前の木曜日、「聖木曜日」午後の「最後の晩餐のミサ」から、復活の主日の夕べの祈りまで、教会は「聖なる過ぎ越しの3日間」に入り、教会の典礼は1年間の中でその頂点を迎える。

教皇は謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、キリストの受難と十字架上の死、そして復活に至る過ぎ越しの神秘を観想するこの期間の典礼の意味を示された。

「聖なる過ぎ越しの3日間」の始まりとなる聖木曜日の「最後の晩餐の夕べのミサ」では、受難を前にイエスはご自分の体と血をパンとぶどう酒の形態をもって御父に捧げ、これを通して使徒たちにご自分を与えながら、このことをご自分の記念として行なうようにと命じたことを思い起こす。

また、福音書にある、イエスが食事の席でシモン・ペトロや他の弟子たちの足を自ら洗われたという出来事にちなみ、このミサでは「洗足式」が行われる。

教皇は、この預言的な行為を通してイエスは、ご自身の生涯と受難が神と兄弟たちへの奉仕を意味することを示されたと話された。

聖金曜日の典礼では、キリストの死の神秘を思い、十字架を崇敬する。

イエスは十字架上で息を引き取る直前に「成し遂げられた」(ヨハネ19,30)という言葉を残された。イエスのこの言葉について教皇は、救いの業が成し遂げられた、聖書に書かれたすべてがキリストの愛において完全に実現したということを意味していると説明。イエスはご自身の犠牲をもって、最も大きな不正を最も大きな愛に変えられたと話された。

世紀にわたり、自分の生き方を通した証しをもって、イエスのこの愛の光を反映した多くの人々がいたと教皇は述べつつ、トルコでの宣教中に殉教したローマ教区のアンドレア・サントーロ神父をはじめ、現代の殉教者たちを思い起こされた。

これらの人々が信仰のために命を捧げた理由、それは「キリストを死に至るまで証しするという奉仕」にほかならないと教皇は強調。

その生き方が「成し遂げられた」という言葉となるのであり、わたしたちもまた人生の終わりに、そのすべての過ちや罪にも関わらず、隣人への愛の業を通して、「主よ、わたしにとってできるだけのことはしました」「成し遂げられた」と言えるならば、どんなに素晴らしいことでしょうと話された。

聖土曜日には、教会はキリストの十字架上での勝利の闘いの後の、墓の中における「休息」を観想し、どんな時でも希望をもって信仰の火を灯し続けた聖母と共に、イエスの復活を待つ。

そして、復活徹夜祭において、再び「ハレルヤ」を響き渡らせ、キリストの復活を祝う。

闇の暗さが魂に入り込み、「もうどうすることもできない」と思い、もはや愛する力も持たない、こうした闇の中にこそ、キリストは神の愛の火を灯すと教皇は話された。

「わたしたちの人生は墓石の前で終わるのではなく、まさに墓から出てこられたキリストにおける希望によって、さらなる先に進むのです」と述べた教皇は、この聖なる過ぎ越しの3日間に主の受難を記念するだけでなく、その神秘の中に入っていきましょうと、信者たちを招かれた。

この日、教皇は巡礼者たちへの挨拶の中で、翌4月2日、聖ヨハネ・パウロ2世の帰天から10年を迎えることを紹介。ヨハネ・パウロ2世の模範と証しはわたしたちの中でいつも生きていますと話された。

 

 








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