2015-03-29 14:00:00

受難の主日:教皇「イエスの道は、謙遜の道」


復活祭を1週間後に控え、カトリック教会の典礼暦は、キリストの受難を記念する「聖週間」に入った。

教皇フランシスコは、3月29日、聖週間の初日である「受難の主日」のミサを捧げられた。

イエスのエルサレム入城を祝うこの日は、「枝の主日」ともいう。子ろばに乗ってエルサレムに入るイエスを民衆が歓呼で迎え、その足元に服や葉のついた枝を敷いたという福音書の記述を思い起こし、ミサの前に参加者らがオリーブや棕櫚の枝を持って行列を行う伝統があることから、このように呼ばれる。

また、この日は各教区において「世界青年の日」が記念された。バチカンの聖ペトロ広場でとり行われた教皇ミサには、ローマ教区の若者たちが多く集った。

教皇フランシスコは、ミサの始めに広場のオベリスク前で、聖職者、修道者、信者の代表が手にするオリーブと棕櫚の枝を祝別。聖歌の調べの中、行列参加者らは教皇を最後列に、枝を掲げながら大聖堂前の祭壇まで進んだ。

ミサ中の福音朗読では、マルコ福音書からイエスの受難が朗読された。

説教で教皇は、以下のように話された。

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一見、祝祭的に見えるこのミサの中心は、先ほどの第2朗読で耳を傾けた、「フィリピの信徒への手紙」の「キリスト賛歌」(2,6-11)にある「へりくだって」(2,8)という言葉、すなわちイエスの謙遜にあります。

この言葉は、神のスタイル、従ってはキリスト者の生き方ともなるべきものを示しています。それは「謙遜」です。神のこのスタイルはわたしたちを驚かせ続け、混乱させます。へりくだった神の姿ににわたしたちは慣れることができないのです。

なによりも謙遜であることが、神のスタイルです。神がご自分の身を低くされるのは、民と共に歩むためであり、彼らの不誠実を忍耐されるためです。それは「出エジプト」の歴史をよく読めばわかります。彼らのあのすべての不平や嘆きを聞くのは主にとってどれほどの侮辱だったでしょうか。彼らの不平はモーセに向けられましたが、それは元をただせば、彼らを奴隷の状態から解放し、荒れ野を横切って自由の地に向かうその歩みを導かれた御父、主に対するものでした。

復活祭へとつながるこの聖週間、わたしたちはイエスのこの謙遜の道を行きましょう。そうしてこそ、この一週間はわたしたちにとっても「聖なる」ものとなるでしょう。

この聖週間、わたしたちは、神の民の指導者たちの侮辱、主をおとしめようとする彼らの偽りを聞くでしょう。12人の弟子の一人で、イエスを銀貨30枚で売ったユダの裏切りを見るでしょう。主が犯罪者のように逮捕され、連れて行かれるのを見るでしょう。主は弟子たちに見棄てられ、最高法院に引き出され、死刑判決を受け、打たれ、侮辱を受けました。わたしたちは、弟子たちの「岩」であるはずのペトロが、主を3度にわたり「知らない」と否定するのを聞くでしょう。指導者たちに扇動された群衆が「バラバを釈放し、イエスを十字架につけよ」と叫ぶのを聞くでしょう。イエスが兵士たちに嘲笑され、赤い外套を着せられ、茨で編んだ冠をかぶせられるのを見るでしょう。そして、イエスがカルワリオの道を十字架を担いで行く間、「神の子なら、救ってもらえ」という群集や指導者たちの罵りを聞くでしょう。

これが神の道、謙遜の道です。これがイエスの道であり、他の道はありません。辱めのないへりくだりはありません。

この道をまっすぐ突き進みながら、神の御子は「僕(しもべ)の身分」(フィリピ2,7)になりました。実際、へりくだりとはまた奉仕、自分を無にして神に明け渡すことでもあります。この自分を無にするということが、もっとも大きな謙遜の形です。

キリストとは反対の道があります。それは「世俗」です。世俗は、わたしたちに虚栄、驕り、成功の道を差し出します。それは別の道です。イエスが荒れ野に40日間いた時、悪魔はイエスにも同じことを提案しました。しかし、イエスはそれをきっぱりと拒絶しました。イエスの恵みと助けによってのみ、わたしたちもこの虚栄と世俗の誘惑に、大きな機会のみならず、日々の生活の中でも打ち勝つことができます。

沈黙のうちに、目立たず、自分を無にして病者や、お年寄りや、障害者や、ホームレスの人に奉仕する多くの人々の模範はわたしたちの慰めです。

福音に忠実であるがために差別され、犠牲を払う人々の謙遜にも思いを向けましょう。現代の殉教者たち、キリスト教徒であるという理由で迫害される多くの兄弟姉妹たちのことを考えましょう。彼らはイエスを否定することなく、嘲りや侮辱に耐えています。わたしたちは大勢の今日の殉教者たちについて話すことができます。

聖週間、わたしたちの主、救い主、イエスへの愛と共に、この謙遜の道をまっすぐ行きましょう。わたしたちを導き、力をくれるのは愛です。イエスのいるところに、わたしたちもいるのです。








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