2014-12-25 12:38:43

主の降誕2014:「今日の世界が必要とするのは神の優しさ」教皇、バチカンで深夜の荘厳ミサ


教皇フランシスコは、バチカンで24日夜、主の降誕の荘厳な深夜ミサをとり行われた。

ローマは雲に覆われた比較的暖かいクリスマスを迎えた。聖ペトロ大聖堂には教皇と共に降誕祭を祝おうと世界各国から大勢の巡礼者が詰め掛けた。

ミサの開始前に、主の降誕を告げる「カレンダ」が朗々と歌われた。これに続き、教皇は、中央祭壇前に置かれたまぐさ桶を覆っていた布を取り、その中に寝かされた幼子イエス像を皆に示された。

主の降誕の喜びを表したこのミサでは、栄光唱(グロリア)の冒頭で、大聖堂の鐘の音とオルガンが鳴り響いた。信仰宣言(クレド)では、「主は、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられた」という箇所において、教皇は祈祷台にひざまずき、神の御子の受肉の神秘に思いをはせられた。

教皇は説教で、「神は誠実で忍耐強く、わたしたちの小ささを愛される方」と話し、「皆が心の底で求めているメッセージ、今日の世界が必要としているものは、神の愛にほかならない」と強調された。

ミサの終わりに、教皇は大聖堂の左側廊にあるプレゼピオ(イエスの降誕を再現した馬小屋の模型)に向かって幼きイエス像を腕に抱いて進まれた。イエス像は助祭の手によって、プレゼピオのまぐさ桶の中に安置された。

聖ペトロ広場の大型プレゼピオにも、ミサ後、同様に幼子イエス像が置かれた。大聖堂から出てきた参列者たちは、幼子イエスを中心に、聖母マリア、聖ヨセフ、羊飼いなどの像によって生き生きと表された主の降誕の場面に見入っていた。

2014年降誕祭深夜ミサにおける教皇フランシスコの説教は以下のとおり。

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「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」(イザヤ9,1)。
「主の天使が(羊飼いたちに)近づき、主の栄光が周りを照らした」(ルカ2,9)。

主の降誕の聖なる夜の典礼は、このように救い主の誕生をわたしたちに示しています。それは最も暗い闇に入り込み、それを溶かす光です。神の民の間における主の現存は、敗北の重さ、隷属の悲しみを消し去り、喜びと幸福に導きます。

わたしたちもまた、この祝福された夜、地を覆う闇を横切りながらも、わたしたちの歩みを照らす信仰のともし火に導かれ、「偉大なる光」に出会いたいという希望に勇気付けられて、神の家までやって来ました。心を開きながら、わたしたちもまた、高く昇り地平を照らす太陽である、この幼子の奇跡を観想することができるのです。

世を覆う闇の始まりは、暗い過去に包まれています。妬みで自分が見えなくなったカインの手が、弟アベルを殺害した時に生まれた、人類で最初の犯罪を再び思い出すことができます(創世記4,8)。こうして、歴史の中に暴力、戦争、憎悪、抑圧が刻まれてきました。

しかし、神は、ご自分の似姿に創られた人間に対し、待つことを望まれました。神はこれほどまでも長く待たれたので、諦めることもできたのです。それでも神は諦めることなく、ご自分に誠実であられました(2テモテ2,13)。それゆえに、神は人間と民の腐敗を前に、忍耐をもって待っておられました。

長い歴史の歩みの中で、闇を切り裂く光が、わたしたちに御父である神を啓示しました。神の辛抱強い誠実さは、闇や腐敗より強いものでした。ここに主の降誕をメッセージがあるのです。神は、怒るに遅く、忍耐強い方です。神は、放蕩息子のたとえの中で、失った息子の帰りを遠くから見守っていた父親のように、いつもそこにいらっしゃるのです。

イザヤの預言は、闇を裂く広大な光が昇ってくることを告げています。それはベツレヘムで生まれ、マリアの愛にあふれた手と、ヨセフの愛情、そして羊飼いたちの驚きに包まれました。

天使が羊飼いたちに贖い主の誕生を告げた時、このように言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2,12)。

そのしるしは、神の究極の謙遜の姿でした。神はその愛をもって、あの夜、わたしたち人間の弱さ、苦しみ、望みや、限界をその身に引き受けられたのです。わたしたち皆が待っていたメッセージ、心の奥底に探していたもの、それは神の優しさにほかなりません。神は、愛情にあふれた眼差しでわたしたちを見つめ、わたしたちの惨めさを受け入れ、わたしたちの小ささを愛される方です。

この聖なる夜、飼い葉桶に寝かされた、生まれたばかりの幼子イエスを観想しながら、わたしたちは自問しなくてはなりません。わたしたちはどのように神の優しさを受け入れるのでしょうか。神のそばまで引き寄せられて、抱擁されるのか、それとも、近づくことをやめるのでしょうか。「それでも、自分は神を求めている」と答えることもできるでしょう。しかしながら、一番大切なことは神を求めることではなく、神が自分を探してくださり、愛情をもって優しく触れてくださるがままにすることなのです。これが、幼子イエスがその存在をもって、わたしたちに尋ねていることなのです。「神の愛を受け入れられますか」。

自問すべきことはまだあります。わたしたちは自分の近くにいる人の困難な状況や問題を、優しさをもって受け入れる勇気がありますか。それとも、効果はあっても、福音の温かみの無い、一般的な解決を好みますか。今日の世界はどれだけ優しさを必要としていることでしょうか!

キリスト者の答えは、神がわたしたちの小ささにたいして与えてくださるものと、同じでなければなりません。人生は善良さと柔和さをもって臨むべきです。神がわたしたちの小ささを愛しておられ、わたしたちとよりよく出会えるようにと神自らが小さくなられたことを知るならば、わたしたちは心を開かないわけにはいきません。そしてこう祈らずにはいられないのです。「主よ、あなたのようになれるように助けてください。人生の最も困難な時、優しさの恵みをください。必要とする人への思いやりの恵みを、争いの中で、穏やかさの恵みをください」と。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、この聖なる夜、幼子イエスの生まれた馬小屋を観想しましょう。そこに「闇の中を歩む民は、大いなる光を見ました」(イザヤ9,1)。そこには神の恵みを受け取ろうとする、素直な心の人たちがいました。反対に、そこには威張った人や、傲慢な人、自分のやり方を押しつける人、自分の中に閉じこもる人はいませんでした。

プレゼピオ(イエスの降誕場面を再現した馬小屋の模型)を見つめ、祈りましょう。そしておとめなる母に願いましょう。「マリアよ、御子をわたしたちに示してください!」と。








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