2014-11-14 18:15:06

教皇一般謁見・カテケーシス・聖職者に必要な本質(2014.11.12)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

教会をめぐるカテケーシスで、これまで主が司教や司祭や助祭など、叙階による聖職者たちを通じてご自分の羊の群れを牧し続けていることを明らかにしてきました。聖霊の力のもとに、彼らの中にイエスは存在し、教会に奉仕し続け、教会に信仰・希望・愛の証しを育てていくのです。これらの聖職は、すべてのキリスト教共同体と全教会への大きな贈り物であると共に、主の現存とその愛の生きたしるしです。今回は、教会への奉仕に当たるこれらの人々に必要とされる素質、そして彼らがその奉仕を正しく豊かに生きることができるのはなぜなのかを考察したいと思います。

使徒パウロは、弟子テモテとテトスへの「司牧書簡」の中で、司教や司祭、助祭、そして信徒、高齢者、若者たちのあるべき姿について述べています。ここでは司教・司祭・助祭が召された理由、聖職に召された者たちに認められるべき特性が説明されています。象徴的なのは、信仰と霊的生活といった本質的資質に加えて、親切、節制、忍耐、柔和、信頼性、思いやりなどの、人間的な資質も挙げています。これらはすべての聖職に必要な要素なのです。そうです、尊重と誠実さをもって、兄弟たちに出会い、彼らを知り、対話し、良いところを認め、絆を築くための、これらの素晴らしい純粋な素質なしでは、人々に奉仕し、本当に喜びにあふれた、信じ得る証しを与えることはできないのです。

そして、パウロが弟子たちに求めた、そしてすべての司牧者たちに求められることになる基本的な態度があります。パウロは、与えられた賜物を燃え立たせ続けるように(1テモテ4,14; 2テモテ 1,6)と励ましています。これは、司教・司祭・助祭であるのは、皆より頭がよく、優れているからではなく、ただ聖霊を通して神の民のために与えられた愛の賜物の力によるということを、常に意識しなければならないということです。この自覚は実に重要で、毎日祈り求めるべき恵みです。実際、司牧者は自分の聖なる職が神の憐れみと御心からのみ来るものだと知り、共同体を自分の所有物、自分の王国のように扱う、権威的な態度を取ることはできないのです。

このすべての賜物、恵みを知ることは、司牧者に人々の関心の的になりたい誘惑や、自分への過信に陥らないようにと助けてくれるのです。司教・司祭・助祭が、自分が何でも知っていて、あらゆることにいつでも正しい答えを持っており、誰の助けも必要としないと考えるなら、それは危険です。常に何か学ぶことがあるということを知るべきです。それは信仰や教会からいまだ遠い人々からさえもです。自分の司祭職における兄弟たちと、これらすべてをもって、分かち合いと、共同責任、交わりに満ちた新しい態度をまとっていかなくてはなりません。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、司教・司祭・助祭のペルソナと聖職を通して主が教会を導き、聖性への道のりの中でそれを育てながら、形作り続けておられることを感謝しましょう。そして同時に、わたしたちの共同体の司牧者たちが、神の交わりと愛の生きた姿となれるよう、祈り続けましょう。








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