2014-11-07 18:47:15

教皇一般謁見・カテケーシス・キリストの体としての教会(2014.10.22)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

いくつもの要素が互いに緊密に繋がり、一つの実体を構成しているような時、それはよく身体というイメージで表現されます。使徒聖パウロに始まって、この表現は教会を表すものと認められ、教会の最も深遠で美しい代名詞ともなりました。今日はキリストの体としての教会を考察しましょう。教会はどのような意味で身体なのでしょうか。なぜ教会は「キリストの身体」と呼ばれるのでしょうか。

旧約聖書の「エゼキエル書」に、大変特異で印象的な幻視についての記述があります。しかし、それは同時にわたしたちの心に希望と信頼を注ぎ込むものでもあります。 神は預言者に乾燥してばらばらになって散らばっている人骨を見せます。骨が一杯散らばっている荒野を想像してみてください。神は預言者にそれらの骨の上に霊が下るように祈るよう招きます。すると、人骨は互いに近寄り、一体化し始めます。最初に筋が、続いて肉がつき始め、身体は完成し、生命に満ちた完全なものとなります(エゼキエル 37,1-14)。これが教会です。今日、家に帰ったら、旧約聖書のエゼキエル預言書37章を読むのを忘れないで下さい。大変素晴らしい描写です。まさしくこれが教会です。聖霊の傑作です。聖霊は一人ひとりに、復活されたキリストの生命を豊かに注ぎ込んでくれます。そして、一人ひとりを結びつけ、お互いが支え合い、仕え合うようにします。こうしてわたしたちは愛の交わりの中に、皆一つの身体となるのです。

しかし、教会はただ聖霊の中に築かれた身体であるだけではなく、教会はキリストの身体でもあります。これは単に言葉の上の話ではありません。わたしたちは本当にキリストの身体です。これは洗礼の日に、わたしたちがいただく偉大な恵みです。事実、洗礼の秘跡において、キリストはわたしたちをご自分のものとされます。わたしたち一人ひとりを新しい被造物として、キリストと共に復活させるために、愛の最高の神秘である十字架の神秘の中に受けいれてくださるのです。教会はこうして誕生します。このように教会はキリストの身体として認められるのです。洗礼の秘跡は、真の再生をもたらし、わたしたちをキリストにおいて生まれ変わらせ、キリストの一部分とするのです。さらに、わたしたちを同じ身体の肢体として互いに一致させます。その身体の頭はキリストです。 (ローマ 12,5; 1 コリント 12,12-13)

そこから溢れ出てくるのは、深い愛の交わりです。わたしたちが何であるか、主イエスがわたしたちにしてくださったこと、わたしたちはキリストの身体であるいうことをしばしば思い出すのは何と素晴らしいことでしょう。わたしたちはキリストの身体であり、その身体から誰もわたしたちを引き離すことはできません。花婿がその花嫁を愛するように、キリストはその身体であるわたしたちをすべての情熱と愛で愛してくださいます。

しかし、この考えは、主イエスにふさわしくお答えしよう、主の愛をキリストの同じ身体の生ける肢体としてわたしたちの間で分かち合おうとの願望を、わたしたちの中に引き起こさなくてはなりません。使徒パウロの時代、コリントの共同体は、しばしば今日のわたしたちの間でも起こるように、分裂や嫉妬、無理解や疎外といった多くの困難を抱えていました。このようなことは良くありません。なぜなら、それによって、キリストの身体としての教会は建設され、成長する代わりに、分割され、ばらばらにされてしまうからです。

同じことが今日のわたしたちの間でも起こります。いくつかのキリスト教共同体、小教区、わたしたちの住む地区で、どれだけの分裂、どれだけの妬み、また、どれだけの悪口、無理解、差別があることでしょう。その後、何が起こるのでしょうか。わたしたちの間の分裂です。戦争の始まりです。戦争は戦場で始まるものではありません。あらゆる戦争は心の中で 、無理解や分裂、妬みをもって、他者との争いをもって始まるのです。

コリントの共同体はまさしくこのような状態だったのです。そこで、使徒パウロは現代のわたしたちにも役に立つような具体的な勧告をコリントの人々に与えています。まず嫉妬はやめなさい。共同体の中で兄弟姉妹たちの良いところを評価しなさいと。誰かが新しい車を買います。すると、すぐ嫉妬です。また、他の人が宝くじに当たります。そうするとこれもまた嫉妬です。別の人の仕事が順調に進んでいると、これもまた嫉妬を引き起こします。これらすべては共同体をばらばらにしてしまいます。絶対に避けるべきことです。嫉妬はどんどん増えて心を満たします。嫉妬に狂う心は、苦い心です。血の代わりに酢が流れているような、決して幸福ではない心です。共同体を台無しにしてしまう心です。

では、どうしたらよいのでしょうか。聖パウロが言うように、共同体の中でわたしたちの兄弟姉妹や他人の長所を評価することです。もし、嫉妬心が起きるなら?これは誰にでも起こることです。なぜなら、わたしたちは皆、罪びとだからです。そうなった時は、主にこう言わなければなりません。「主よ、ありがとう。あの人にこんな素晴らしい贈り物を与えてくださいました。ありがとう」と。他人の長所を認め、評価すること。苦しんでいる人々や貧しい人々の傍らに行き、すべての人に感謝すること、苦しみを共にすること。感謝を知る心は、良い心であり、高貴な心です。

いつもわたしたちはありがとうと言うことができますか?いつもはできません、なぜなら嫉妬や妬みがブレーキをかけてしまうからではないでしょうか。そこで聖パウロがコリントの信徒たちに与えた具体的な勧告が役立つのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、預言者エゼキエルや使徒聖パウロが祈ったように、わたしたち皆が心を一つにし、キリストの身体として、一致した家族として生きる恵みを聖霊に願いましょう。こうしてわたしたちもキリストの愛の目に見える美しいしるしとなれるでしょう。








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