2014-05-09 13:59:38

教皇一般謁見・カテケーシス・聖霊の賜物②「聡明」(2014.4.30)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

前回、聖霊の第一の賜物として、「上智」について考察しました。今日は第二の賜物、「聡明」に注意を向けたいと思います。

これはわたしたち誰もが多かれ少なかれ持つことのできる、人間的な知的能力としての聡明ではありません。それはキリスト教徒の中に、外的な世界を超えて、神の思いとその救いの計画の深みに達することができるようにと、聖霊だけが注入できる恵みです。

使徒聖パウロは、コリントの共同体への手紙の中で、わたしたちの中で「聡明」の恵みがどう働くかをよく説明しています。聖パウロは言っています「『人の目が見たことも、耳が聞いたことも、心に思い浮かんだこともなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために用意された』神はわたしたちにそのことを聖霊を通して啓示してくださいました」(1コリント 2,9-10)。

もちろん、これはキリスト者が神のご計画を何でも完全に理解できるということを意味していません。すべてが完全に分かるようになるのは、わたしたちが神のみ前に出る時を待たねばなりません。その時には本当にわたしたちは神と一つになるでしょう。しかし、言葉自体が示している通り、「聡明」とは「内部まで見ること」を意味します。この恵みは、物事を神の聡明によって、神が理解するように理解させてくれます。人間的聡明によっても、賢明さによっても、人は物事をある程度まで理解することができます。それはそれで良いことです。しかし、物事の深みを神が理解するように理解するのは、この賜物のおかげです。

わたしたちがこの賜物を得て、皆が神の聡明さをもって、神が理解するように物事を理解できるように、イエスは聖霊を送ることを望まれました。これは主がわたしたちに与えてくださった素晴らしい贈り物です。

聡明の賜物は、信仰と緊密に結ばれています。聖霊がわたしたちの心の中に住み、わたしたちの知性を照らす時、主が語り行ったことを日毎にますます明白に理解させてくれるのです。イエスご自身、弟子たちにこう言われました。「あなたたちに聖霊を送ろう。彼はわたしがあなたたちに教えたことをすべて理解させてくれるだろう」。

イエスの教え、その言葉、その福音、神のみ言葉を理解することです。人は福音を読んで何かを理解できるでしょう。しかし、もしわたしたちが聖霊のこの賜物をもって読むなら、神のみ言葉のその深みまでも理解することができるのです。これは大きな恵みです。わたしたちが皆で一緒に願うべき賜物です。主よ、わたしたちに聡明の賜物をお与えください。

この賜物の力とその深さをよく表現している聖ルカの福音のエピソードがあります。イエスの十字架上での死とその埋葬の後、失望した弟子たちがエルサレムから出てエマウスという村に帰るところでした。道すがら復活されたイエスが彼らに近づき、彼らと話し始めます。しかし、弟子たちの目は悲しみと失望で曇っており、イエスを認めることができませんでした。イエスは彼らと道を共にします。弟子たちは彼がイエスだと気づかないほどに、悲しみと失望に沈んでいました。しかし、主が復活するために苦しみそして死ななければならなかったことを理解させるために聖書を説明した時、弟子たちの知性が開かれ、その心に希望の火が灯されました(ルカ 24,13-27)。

これがわたしたちのために聖霊がなさる業です。神に関する事柄、人間的な事柄や諸事情、そしてすべてのことをよりよく理解するために、わたしたちの知性を開いてくださるのです。ですから、聡明の賜物はわたしたちのキリスト教生活にとって大変大切な賜物です。身の周りで起こることを、神が理解するようにわたしたちも理解できるよう、特に福音の中の神の言葉を理解できるよう、主にこの賜物を願いましょう。








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