2014-02-26 18:14:32

教皇一般謁見・カテケーシス・赦しの秘跡について(2014.2.19)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

キリスト教入信の秘跡、洗礼、堅信、聖体によって、人はキリストにおける新しい生命をいただきます。しかし、わたしたちは皆よく知っています。わたしたちはこの生命を使徒聖パウロが言うように「脆い陶器の器の中に携えています」(2コリント 4,7)。

実にわたしたちは罪のために、まだ誘惑や苦しみ、そして死の危険にさらされています。わたしたちはこの新しい生命を失うこともあり得るのです。ですから、主イエスは特に「いやしの秘跡」と総称することもできる「赦しの秘跡」と「病者の塗油の秘跡」によって、教会がその救いの業をそのメンバーに対して継続することを望まれました。

「赦しの秘跡」は「いやしの秘跡」です。告解に行く時、わたしは癒されるため、霊魂も心も何か良くなかったことから癒されるためなのです。赦しの秘跡の素晴らしい聖書的な説明は、福音書が伝えるイエスの中風患者の治癒のエピソードです。主イエスはそこでは同時に霊魂と身体の医者としてご自身を啓示しています (マルコ 2,1-12 、 マタイ 9,1-8、ルカ 5,17-26)。

1. 償いと和解の秘跡は、直接に「過越しの神秘」に由来します。事実、復活の晩、主は高間に閉じこもっていた弟子たちに現れ、「あなたたちに平安あれ」と挨拶された後、彼らに息を吹きかけ言われました。「聖霊を受けなさい。あなたたちがその罪を赦す人々は赦されるだろう」(ヨハネ 20,21-23)。福音書のこの箇所はこの赦しの秘跡の深い本質をよく表しています。第一にわたしたちの罪の赦しは、わたしたちが与えることのできるものではありません。わたしは「自分の罪をわたしが赦します」と言うことはできません。赦しは乞うものです。自分以外の他の人に乞うものです。告解においてわたしたちはイエスに赦しを乞うのです。赦しは、わたしたちの努力の結果ではありません。赦しは恵みです。十字架上で死に、そして復活されたキリストの開かれた心からあふれ出る恵みと憐れみとの泉で、わたしたちを洗う聖霊の恵みです。わたしたちが主イエスにおいて御父と兄弟たちと和解することによってのみ、わたしたちは本当の平和を得ることができるのです。このことはわたしたちが告解に行く時、皆が感じることです。少し心の重みを感じながら、また少し悲しみながら、告解に行く時、そしてイエスの赦しを受ける時、わたしたちは平和に満たされます。ただイエスだけが与えることのできる、あの素晴らしい霊魂の平和に満たされるのです。

2. 歴史の中でこの秘跡は、初期に行われていた公的告白から、個人的な告白に変わっていきました。しかし、この変化はこの秘跡の教会的な次元を失わせてはいません。告白の秘跡の教会的な次元は、本質的なものです。実際、聖霊が実在する場は、教会共同体です。聖霊は神の愛の中に心を新たにさせ、イエス・キリストにおいてすべての兄弟たちを一つにするのです。これがなぜ自分の心の中で主に赦しを乞うだけでは不十分であり、謙遜にまた信頼を込めて教会の司祭に自分の罪を告白する必要があるかの理由を示しています。この秘跡の行使において、司祭はただ神を代表するだけではなく、全共同体をも代表しています。この教会共同体は各メンバーの弱さを自覚し、その痛戒を感動を込めて聞き、彼と和解し、その回心と人間的かつキリスト教的成熟への歩みを共にしてくれるのです。








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