2013-08-20 18:31:58

「信仰の希望と驚きと喜び」アパレシーダの聖母巡礼聖堂での教皇ミサ説教(2013.7.24)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

すべてのブラジル人の母、アパレシーダの聖母の巡礼聖堂を訪れることは、わたしにとってなんと大きな喜びでしょうか。教皇に選ばれた翌日、わたしはペトロの後継者としての責務をその保護に託すため、ローマの聖マリア大聖堂(サンタ・マリア・マッジョーレ)を訪れました。今日、わたしは、わたしたちの母、マリアに、「世界青年の日大会」の実りを祈ると共に、そのみもとにラテン・アメリカの人々を託すためにここにやって来ました。

皆さんにまずお話ししたいことがあります。今から6年前、ここでラテン・アメリカおよびカリブ司教協議会の第5回総会が開かれ、それにわたしも参加することができました。会議で司教たちは、キリストとの出会い、キリストの弟子であること、そして宣教というテーマを話し合いました。参加司教たちは、毎日のその生活を聖母マリアに託すためにここを訪れる多くの巡礼者たちに勇気づけられるの感じたものです。あの司教総会は、教会にとって大切な時でした。教会はキリストを探す時、いつも聖母の家の扉をたたき、そして「イエスを私たちに示してください」と願います。そして、キリストの真の弟子であるとは何なのかを聖母から学ぶのです。教会が宣教に向かう時、いつも聖母マリアの生き方に従うのはそのためなのです。

「世界聖年の日大会」のためにブラジルを訪れながら、今日、わたしもマリアの家の扉を叩きに来ました。わたしたちすべて、神の民の牧者、両親、教育者らが、若者たちに、より正しく連帯に満ちた兄弟的な国家建設のために必要な価値を伝達できるよう、イエスを愛し、教育した聖母マリアに助けを願うためです。

そのために、わたしは簡単な三つの態度を提示したいと思います。それは、希望を保つ、神の働きに驚く心を持つ、そして喜びのうちに生きることです。

1.「希望を保つ」。ミサの第二朗読では劇的な場面が描かれます。一人の女-教会と聖母マリアを象徴する存在-が、その子を飲み込もうとする竜、-悪魔-から迫害されます。しかしこの場面は、死の場面ではなく、生命の場面です。なぜなら、神が助けに入り、子を救うからです。各自の人生、わたしたちの人々や共同体の中に、どれほど多くの困難があることでしょう。しかし、その困難がいかに大きく思われても、神はわたしたちがそれに押しつぶされるままにはしません。

福音宣教のために働く人々、家庭の父や母として信仰を生きぬこうと努力する人々が、その生活の中でたとえ失望することがあっても、わたしは力強く言いたいと思います。神は皆さんのすぐそばを共に歩まれ、どのような時もあなたがたを見捨てません!心に常にこの確信を持ってください。決して希望を失わないことです!わたしたちの心に希望の灯を消してはなりません!

わたしたちの歴史には、「竜」、悪の存在があります。しかし、一番強いのは悪ではありません。最も強いお方は神、神こそわたしたちの希望なのです!確かに今日、皆、多かれ少なかれ、わたしたちの若者たちもまた、お金や、成功、権力、快楽などの様々な偶像に魅かれ、それらを神の代わりにし、そこに希望を見出そうとします。多くの人の心に巣食う孤独や虚無感が、はかない偶像に代償を求めさせることがよく見うけられます。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちは希望の光なのです!わたしたちには現実を見つめる前向きな眼差しがあります。若者たちの特徴である寛大さを励まし、彼らがより良い世界を築くための主人公となれるよう、彼らと共に歩みましょう。若い人々は、教会と社会のための大きな推進力です。彼らは物質的なものだけを必要としているのではありません。彼らが必要としているのは、特に人々の霊的な心や、一つの民族の記憶といった、非物質的な価値なのです。ブラジルの歴史の一部であるこの聖母巡礼聖堂において、霊性、寛大さ、連帯、堅忍、兄弟愛、喜び、こうしたキリスト教信仰に深く根づく価値を読み取ることができます。

2. 二番目の態度は、「神の働きに驚く心を持つ」ということです。信仰に基づく希望を生きる人は誰でも、たとえ困難のただ中にあっても、神が働かれ、わたしたちに驚きをもたらすことを知っています。この聖母巡礼地の歴史は、まさにそれを証しするものです。パライーバ川で漁をしていた三人の漁師たちは、まったく魚が獲れない空しい一日の終わりに思いがけないものを発見しました。それは無原罪の聖母のご像でした。魚もかからなかった場所が、すべてのブラジル人たちを同じ一人の母の子として感じさせる場所になるとは、一体誰が想像できたでしょうか。

先ほど耳を傾けたあの福音の中の新しいぶどう酒のように、神はいつもわたしたちを驚かせます。神はいつもわたしたちのために、最上のものをとっておかれます。一方で、神はわたしたちが神の愛に驚き、その驚きを素直に受け入れることを求められます。神に信頼しましょう。神から遠く離れるならば、喜びのぶどう酒、希望のぶどう酒はなくなってしまいます。神に近づき、神と共に留まるなら、冷たい水のように見えるもの、すなわち困難や罪も、神との友情という新しいぶどう酒に変わるのです。

3. 第三番目の態度は「喜びのうちに生きる」ということです。親愛なる兄弟たち、イエスがわたしたちにくださる新しいぶどう酒の驚きを受け入れつつ、希望のうちに歩むならば、わたしたちの心は喜びにあふれ、この喜びを証しせずにはいられないでしょう。キリスト者は喜びに満ちた人であり、決して悲しい人ではありません。神はいつもわたしたちと共にいてくださいます。わたしたちには、第一朗読で読まれたエステル王妃のように、子であるわたしたちのためにいつもとりなしてくださる、一人の母があります。イエスは、神のみ顔が、わたしたちを愛する父の顔であることを示してくださいました。罪と死は打ち破られました。キリスト者は悲観主義者ではありません。いつも喪に服しているような顔はしていません。もしわたしたちが本当にキリストを愛し、キリストがどれほどわたしたちを愛しているかを感じるなら、心は大きな喜びの火で燃え上がり、まわりのすべての人々にもこの喜びを伝染させることでしょう。ベネディクト16世がおっしゃったように「弟子は、キリストなしでは光を放てず、希望も、愛も、未来もないことをよく知っています」。

親愛なる友人の皆さん、わたしたちはマリアの家の扉を叩きに来ました。聖母はわたしたちにその扉を開けてくださいました。そして中に招じ入れ、わたしたちにその子、イエスを示してくださいます。今、聖母はわたしたちに願っておられます。「何でも彼が言うとおりにしてください」と。はい、わたしたちの母よ、わたしたちはイエスの言うとおりにするよう努力します。 神への全幅の信頼のうちに、喜びに満ちて、イエスの言うとおりにいたしましょう。アーメン








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