2013-05-08 14:49:34

「神はあなたを愛している」と教える聖霊に耳を傾けよう、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで8日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「使徒信条」の考察を続けながら、この日は「わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を」という部分を取り上げられた。

教皇のカテケーシスは以下のとおり。

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教会の典礼に導かれ、わたしたちが喜びをもって過ごしているこの復活節は、十字架上で死に、復活したイエスが「限りなくお与えになる」(ヨハネ3,34)特別な聖霊の時であります。この恵みの時は聖霊降臨をもって締めくくられます。この期間、教会は、高間で祈りに専心するマリアと使徒たちに聖霊が降った出来事を再び体験するのです。

ところで、聖霊とは誰でしょうか?使徒信条の中で、わたしたちは信仰をもって「わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を」と宣言します。使徒信条の中でわたしたちが最初に受け入れる真理は、聖霊とは「キリオス」、すなわち主であるということです。つまり、御父と御子がそうであるように、聖霊は真に神であるということを意味します。わたしたちにとって、それは御父と御子に対するのと同じように礼拝し、栄光をたたえるべき対象であるということです。聖霊は、実際、至聖なる三位一体の中で、三つ目のペルソナです。御父によって遣わされた御子がわたしたちを神との友情と交わりに導くのと同じように、聖霊は復活のキリストの大きな贈り物として、わたしたちの頭と心をイエスへの信仰に向けて開きます。

ここで特に、わたしたちの中で聖霊は神の命の尽きることのない泉であるという事実を考えてみたいと思います。すべての時代と場所で人間は、満たされた素晴らしい、正しく善良な人生、死に脅かされることなく、その完全な実現まで成長し成熟し続ける人生を望んできました。人間は旅人のように人生の砂漠を横切りながら、光・愛・美しさ・平和への深い願望を癒す、生きた水、ほとばしる新鮮な水を求めています。誰もがこれを求めているのです。イエスはこの生きた水をわたしたちに与えてくださいました。それは聖霊です。御父から発し、イエスがわたしたちの心に注いでくださる聖霊です。イエスは言います。「わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ 10,10)。

イエスはサマリアの女に、ご自分を人間を救うために御父が遣わした御子であると認めるすべての者に、「生きた水」をあふれるほど永遠に与えると約束されました。(ヨハネ 4, 5-26; 3,17)。イエスはこの「生きた水」である聖霊をわたしたちに与えるために来てくださいました。わたしたちの人生が神に導かれ、元気づけられ、育まれるためです。キリスト者が霊的な人間であると言う時、まさにこのことを指しているのです。キリスト者とは神によって、聖霊によって行動する人間であるということです。ここで尋ねましょう。わたしたちは神に従って考えますか?神によって行動しますか?それとも、神とは関係ない、他の多くのことに流されていませんか?わたしたち一人ひとりがこれを心に問わなくてはなりません。

さて、ここで考えてみましょう。なぜこの水は わたしたちの渇きをこれほど深く癒すのでしょうか?わたしたちは、水は生きる上で必要なものだと知っています。水がなくては死んでしまいます。水は潤し、洗い、地を豊かにします。ローマの信徒への手紙の中にこう書かれています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからです」(ローマ5,5)。「生きた水」、復活の主の賜物である聖霊は、わたしたちの中にお住まいになり、わたしたちを清め、照らし、新たにし、愛である神の命に参与するようわたしたちを変容します。。それゆえ、使徒パウロは、キリスト者の生活は聖霊に促されたものであり、それが結ぶ実は「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5,22-23)であると言っています。聖霊はわたしたちを「神の御一人子の子たち」として神の命に導きます。

ローマの信徒への手紙の別の箇所では、聖パウロはそれをこのように要約しています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、 人を神の子とする霊を受け、この霊によってわたしたちは『アッバ!父よ!』と呼ぶことができるのです。この霊こそは、わたしたちの霊と一緒に、わたしたちが神の子であることを証ししてくださいます。もしわたしたちが子であれば、相続人でもあります。神の相続人、キリストとの共同相続人です。わたしたちがキリスト共に苦しむならば、その栄光をも共に受けることになるのです」(ローマ8,14-17)。

聖霊がわたしたちの心にもたらす貴重な贈り物、それは神の命そのもの、真の子としての命、信頼と自由、神の愛と憐れみにおける信頼関係です。このことは遠くや近くの他の人たちにも眼差しを向けさせ、彼らを愛し尊重すべきイエスの兄弟姉妹として認識させます。聖霊はキリストの眼差しをもって見ること、キリストが生きたように生きること、人生をキリストが考えたように考えることを、わたしたちに教えてくれます。聖霊はわたしたちが神から子として愛され、また神を子として愛せること、神の恵みによってわたしたちがイエスのように神の子として生きられることを教えてくれます。だからこそ、生きた水、聖霊は我々の命を癒すのです。

わたしたちは聖霊に耳を傾けていますか?聖霊はわたしたちに何を言っていますか?「神はあなたを愛している」、これを我々に言っているのです!神はあなたを愛しています。あなたを大切に思っているのです。では、わたしたちはイエスのように神と隣人を本当に愛していますか?導かれましょう、聖霊に導かれようではありませんか。聖霊がわたしたちの心に話しかけるがままにしましょう。聖霊は言います。神は愛です。神はいつもわたしたちを待ってくださいます。神は父であり、わたしたちを本当のお父さんのように愛してくださいます。わたしたちを本当に愛しておられるのです。聖霊が心に語りかけているのはこれだけなのです。聖霊に耳を傾けましょう。聖霊の声を聞き、この愛と憐れみと赦しの道を歩いていきましょう。








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