2013-03-15 19:37:02

「主の十字架と共に歩み、築き、信仰を宣言する」教皇フランシスコ、枢機卿団とのミサで


教皇フランシスコは、14日午後、コンクラーベを締めくくるミサを選挙に参加した枢機卿らと共同司式した。

コンクラーベの終了後には「プロ・エクレジア(教会のため)」という意向でミサが捧げられる。

前日までコンクラーベの舞台であったバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂で、新教皇フランチェスコは、有権枢機卿たちに「主の十字架と共に歩み、築き、信仰を宣言する勇気を」と呼びかけ、「こうしてこそ教会は前進することができる」と強調された。

ミサの朗読では、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」という『イザヤ書』(2,2-5)「主は神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがたも自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」という『ペトロの手紙一』( 2,4-9)、そして「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うイエスにペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表す『マタイによる福音書』(16,13-19)の各箇所が読み上げられた。

教皇は説教で、原稿を用いずイタリア語で次のように話された。

「この3つの朗読には共通する何かがあるように思われます。それは「動き」ということです。第一朗読において、その動きは歩みの中にあります。第二朗読では、その動きは教会を築くことにあります。3つ目に福音朗読において、その動きは信じることにあります。歩くこと、築くこと、信仰を告白することです。

歩くこと。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2,5)。これは、神がアブラハムに最初に言ったことです、わたしの現存のもとに歩き、非の打ち所のない者でありなさい。歩くこと。皆さんの人生は歩みであり、わたしたちが止まっている時は、物事は順調ではないのです。主のもとを、主の光のうちに、神がその約束においてアブラハムに望んだその完璧さを生きるよう努力しながら、いつも歩くことです。

築くこと。教会を築くことです。ここでは石のことを言っています。石にはずっしりとした中身があります。しかし、それは生きた石、聖霊によって祝別された石です。主ご自身である隅の親石の上に、キリストの花嫁である、教会を築くことです。築くこと、これがわたしたちの人生のもう一つの動きです。

3番目は、信仰を告白することです。わたしたちは歩きたいだけ歩けますし、多くのものを築けますが、イエス・キリストへの信仰を告白しないなら、それは何かが間違っているのです。わたしたちは慈善団体になってしまい、主の花嫁である教会ではないのです。歩かない時、わたしたちは止まっています。わたしたちが石の上に築かない時、何が起きるでしょうか?子どもたちが浜辺で砂の城を作る時に起きることが起きるのではないでしょうか。すべてが、何の中身もなく崩れてしまうのです。イエス・キリストにおける信仰を告白しない時、わたしにはレオン・ブロイの言葉が思い起こされます、「主に祈らない者は、悪魔に祈る」のです。イエス・キリストへの信仰を表さない時、悪魔の虚飾を信仰しているのです。

歩くこと、築くこと、信仰を告白すること。しかし、そうは簡単ではありません。なぜなら、歩くこと、築くこと、信じることにおいて、時に振動が起き、歩みとは言えない動き、わたしたちを後ろに引き戻す動きが起きるからです。

この福音には、特別な状況が続きます。イエス・キリストへの信仰を告白したペトロ自身が言うのです。あなたはキリスト、生ける神の子です。わたしはあなたに従いますが、十字架のことは話さないようにしましょう。これは関係のないことです。別の方法をもって、十字架なしで従います、と。わたしたちが十字架なしに歩き、十字架なしに築き、十字架のないキリストへの信仰を言い表す時、わたしたちは主の弟子ではないのです。その時、わたしたちは虚栄の世界の者なのです。わたしたちは司教、司祭、枢機卿、教皇ではあっても、主の弟子ではないのです。

わたしはこの恵みの日々の後に皆さんに望みます。わたしたちが勇気を持つこと、主の現存のもとに、主の十字架と共に歩み、主が十字架上で流された御血の上に教会を築き、唯一の栄光、十字架につけられたキリストへの信仰を宣言する勇気を持つことです。こうしてこそ教会は前進することができるのです。

わたしたちの母である、聖母への祈りのために、聖霊がわたしたち皆に、歩み、築き、十字架につけられたイエス・キリストへの信仰を表す恵みを与えてくださいますように。アーメン。」








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